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執筆者の写真Mikako Hayashi-Husel

「空気(雰囲気)」をドイツ語で考える

更新日:2020年6月9日

最近やたらといわれるようになった「空気を読む」「空気が読めない(KY)」といった日本語表現が、ドイツ語ではどう言えるのか、また言えないのか、そこにある文化的な違いは何かといったことについて、今回は考えていきたいと思います。


私たちが日常的に意識することなく吸ったり吐いたりする空気や圧縮して動力源として利用する空気は、どちらの意味でもドイツ語では die Luft に相当します。


日本語で比ゆ的に「空気のような存在」というと「いて(あって)当たり前の存在」という意味と「いて(あって)も気が付かない存在=無視の対象」という意味の二通りの解釈が可能です。従って「人を空気のように扱う」という場合も二義的な解釈になりますが、ドイツ語では jemanden wie Luft behandeln というと、「無視をする」という意味のみです。


他の Luft を使った慣用表現を見ると、日本語の「息」を使った慣用表現に対応する場合が多いです。これらに関してはまた別の機会にご紹介したいと思います。


さて、「空気を読む」という表現の中の「空気」とは、基本的には「その場の雰囲気」のことを指しています。例えば「職場の空気になじむ」や、「険悪な空気が流れる」などという場合の「空気」とほぼ同類です。


「職場の空気になじむ」の場合、ドイツ語では die Luft des Arbeitsplatzes とは言えず、die Atmosphäre am Arbeitsplatz のように「Atmosphäre」という言葉を使います。これは本来はギリシャ語の atmós(霞・靄)と sphaîra(球体)を合わせて「大気圏」という概念を表すために17世紀頃に作られた造語ですが、18世紀ごろから「雰囲気」という意味でも使われるようになりました。「特定の空間の中の空気」といった、空間性が感じられる言葉ですね。

ただし、「職場の空気になじむ」を sich an die Atmosphäre am Arbeitsplatz gewöhnen という言い方は普通しません。こう言っても理解はされますが、大抵は sich am neuen Arbeitsplatz einleben「新しい職場になじむ」と言います。

もし、どうしても「空気感」を出したいのであれば、das Klima「気候、環境」の派生語である sich akklimatisieren という動詞を使うことができます。ただし、少々気取ってる印象を与えることになりますが。 ちなみに Klima は、「労働」を表す Arbeit と組み合わせて Arbeitsklima とすると、「職場環境」という意味になります。

「険悪な空気が流れる」は、es herrscht eine gespannte Atmosphäre に相当しますが、この場合は Luft を使って、es herrscht dicke Luft ということも多いです。

この「dicke Luft」は、本来は埃や有害物質などで濁った空気を指します。第一次世界大戦の頃は、敵の手榴弾や大砲などによる砲撃が激しく、舞い上がる土や立ち込める噴煙で視界が利かなくなる状況を指す言葉として使われていました。その対義語として「die Luft ist rein(空気が清浄である=敵がいない、安全である)」という表現も生まれました。 こういう文脈からdicke Luft」は、戦場以外でも「緊迫した、今にも争い等の危険なこと・不快なことが起こりそうな雰囲気」を意味するようになったわけです。


では、「空気を読む」は Luft lesen や Atmosphäre lesen のように言葉通りにドイツ語に訳せるのかと言えば、それは無理です。

とある写真文筆家が「空気は読むものじゃなくて作るもの。そしてその空気を写してこその写心(しゃしん)だ」とおっしゃっていたのですが、この中の「空気を作る」は eine Atmosphäre schaffen とそのまま言うことが可能ですし、「その空気を写す」も die Atmosphäre abfotografieren や die Atmosphäre (in einem Bild / in Bildern) festhalten などと表現可能です。でも、なぜ「読む」だけがドイツ語でうまく表現できないのでしょうか?


これには「空気を読む」ということがそもそもどういうことなのかを少し掘り下げて考えてみる必要があります。

ここでいう「空気」または「その場の雰囲気」とは何なのでしょうか?

そこには、「職場の雰囲気」などという時とは違った、もっとその場にいる人(たちの多数)が共有する、明言されない、暗黙の了解や期待が含まれていると考えられます。このため、Luft や Atmosphäre で表現できる範疇を逸脱してしまっているわけです。だから、ここは具体的に unausgesprochene Erwartungen der Anwesenden「その場にいる人たちの明言されていない期待」などのように言う必要があります。

また、「読む」という動詞に込められている意味は、そうした暗黙の了解事項や期待を理解し、その通りに行動すること、または少なくともそれに反しないことであるため、ここでもまた lesen という語がカバーできる意味の範疇を超えてしまっています。

一方、lesen に接頭辞 ab- がついた ablesen は、die Gedanken/Wünschen aus den Augen ablesen「目から考え/要望を読み取る」などという表現があるように、「明言されていないものを理解し、それに応じた行動をする」というニュアンスがありますので、「空気を読む」という際の「読む」にかなり近い意味を持っています。

というわけで日本語の「空気を読む」の説明としては、unausgesprochene Erwartungen der Anwesenden ablesen がドイツ人にもある程度理解できる表現と言えます。


なぜ「ある程度」なのかと言えば、ドイツ社会では暗黙の了解や期待に応じて行動することに対する期待感や社会的な圧力 sozialer Druck がほとんどないからです。そういうことができればおそらく歓迎はされますが、通常であれば、個人個人が違った考えやニーズを持っていることが前提となるため、何をどうすべきかということに関しては言葉に出して話し合いをして合意するものだからです。もちろん数人のグループであれば、中にはその場を仕切る強い人 das α-Tier が居て、その他に対抗する人がいなければ、その仕切る人になんとなくみんな従うということもあり、そういう流れができてしまっていれば、ちょっと違和感を持っていても合わせておこうとする人もいます。こういう場合、日本ではやはり「空気を読む」と言うでしょうが、ドイツ語では mitlaufen「一緒に走る」と言い、そのように主体性なくなんとなく流れに従って動く人のことを Mitläufer と呼びます。貶し言葉ではありませんが、どちらかというと倫理的観点から否定的な意味で使われます(もちろん言葉通り「一緒に走る人」、つまり「競走参加者」を意味することもあります)。日本語の付和雷同という言葉のニュアンスによく似ています。


以上のことから、日本では最近とみに当然とされる「空気を読む」ことは、ドイツではむしろ主体性のない行動としてむしろ否定的に見られるということが言えます。「空気を読まない」方がドイツでは然るべき態度、デフォルトなんですね。


動画版はこちら。






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