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【学問の自由】シュタインマイヤー独大統領ボン大学創立200周年記念式典式辞を原文で読もう(4)

更新日:2020年11月16日


第3回に引き続き、ボン大学の歴史の部分です。かの有名なカール・マルクスが2学期間ボン大学にシュレーゲルの聴講生としてボン大学に在学していた逸話から始まります。

【原文】

Karl Marx, genauso alt wie die Universität, war übrigens ebenfalls Schlegel-Hörer. Er kassierte während seiner zwei Semester am Rhein eine eintägige Karzerstrafe wegen "nächtlichen ruhestörenden Lärmens und Trunkenheit" und unerlaubtem Waffenbesitz. Das war vermutlich noch kein revolutionärer Aufstand, vielleicht aber eine akademische "Aufwärmphase". Nicht viel revolutionärer war es, als auf Geheiß Berlins zum Ende des 19. Jahrhunderts auch in Bonn erstmals Frauen an die Universität kamen, ganze 16 Gasthörerinnen im Wintersemester 1896/97. Es sollte noch zwölf Jahre dauern bis zum Recht auf Vollimmatrikulation, und 14 Jahre, bis mit Maria von Linden eine erste Frau zur Professorin wurde – allerdings noch ohne venia legendi. Was damals ganz besonders galt, das gilt heute immer noch: Bei der Gleichberechtigung in der Wissenschaft gibt es einiges zu tun. Nicht nur hier in Bonn, sondern überall in Deutschland.


Nochmal mehr als ein halbes Jahrhundert nach den ersten Frauen an der Universität, nach zwei Weltkriegen und der brutalen Nazidiktatur, da gab es hier wieder verstärkt demokratischen Geist zu spüren. Wie Gerd Bucerius Ende der 1970er-Jahre in der ZEIT schrieb, war die Bonner Republik im Jahr 1949 allerdings noch längst keine ausgemachte Sache: "Die Schaffner am Bahnhof Bonn rümpfen die Nase, wenn ein Bundestagsabgeordneter seinen Freifahrschein vorzeigt. Im Bundeshaus hörten wir von den auf dem Rhein vorbeifahrenden Vergnügungsdampfern das Karnevalslied: ‚Wer soll das bezahlen, wer hat das bestellt [...]?‘ Demokratie musste erst gelernt werden."


【解説】

die Karzerstrafe 禁足処分

auf Geheiß Berlins zum Ende des 19. Jahrhunderts 19世紀末のベルリン(政府)の命令で。19世紀はプロイセンでも女権運動が盛んになり、女性の教育、大学入学を求める請願なども提出されました。直接的な成功は納めなかったものの、スイスやフランスなどに遅れて1896年からプロイセンでも女性が例外的許可を通じて聴講生として大学教育を受けられるようになりました。

die Gasthörerin (正規学生に対する)聴講生

die Vollimmatrikulation 正規学籍登録、正規入学許可

Maria von Linden マリア・フォン・リンデン伯爵夫人(1869~1936)、ドイツの動物学者、寄生虫学者。ドイツ史上初の女性教授。

venia legendi = Lehrberechtigung、教授資格認可

die Gleichberechtigung 男女同権

Gerd Bucerius ゲルト・ブツェリウス(1906~1995)、法学者、出版業者、CDUの政治家

keine ausgemachte Sache 決定事項ではない

ZEIT ドイツの新聞「ツァイト」

das Karnevalslied: ‚Wer soll das bezahlen, wer hat das bestellt [...]?‘ Wer soll das bezahlen? というJupp Schmitzの1949年の歌の一節。物資不足が当たり前の世相、飲み屋の親父が急に気前良くなったり、奥さんが急に下着や靴を履いたりすれば、「誰がそれを払うんだ?」とパニックを起こすような時代を反映した歌詞。「民主主義とはなんぞや?」と議論する余裕はなかった、という意味で引用したようです。


【翻訳】

ちなみに、ボン大学と同じ年のカール・マルクスも、シュレーゲルの聴講生でした。彼がライン地方で過ごした2か月の間、「夜間の迷惑な騒音と飲酒」および無許可の武器所有のため、1日間の禁足処分を食らいました。それはおそらくまだ革命的な蜂起ではなかったでしょうが、アカデミックな「ウォーミングアップ」期ではあったでしょう。それは、ベルリン政府の命令で19世紀末、1896~97年冬学期にボン大学にも16人の女性が聴講生として来たことは、それに比べてそれほど革命的というわけではありませんでした。そこから女性の完全な大学入学までさらに12年、マリア・フォン・リンデンが女性初の教授に就任するまでさらに14年かかりました。とはいえ、彼女はまだ教授資格認可は受けてませんでしたが。当時特に価値のあったことは、現在でもなお価値のあったあります。学問の世界における男女平等の達成にはまだいくつか課題があります。ここボン大学だけでなく、ドイツ全国で。


本学に最初の女性が受け入れられて、2つの世界大戦と血も涙もないナチス独裁が過ぎ去ってからから半世紀以上経った頃、ここでまた民主主義精神の高まりが感じられることがありました。ボン共和国(旧西ドイツ)は1949年の時点ではまだ決定事項ではありませんでした。ゲルト・ブセリウスが1970年代末にツァイト紙に次のように寄稿しました。「ボン駅で連邦議会議員が議員用無料乗車券を見せると、車掌は鼻にしわを寄せたものだ。連邦議会議事堂では、ライン川を通過する遊覧船から『誰がそれを払うんだ?誰がそれを頼んだんだ[...]?』というカーニバルの歌が聞こえてきた。民主主義はまず学習されなければならなかったのだ。」






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